ゲームを創り上げた世代の「OUR STORY」だったドラクエ映画
※映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のラスト部分についての個人的な考察を書いています。ラストの詳細は説明を省略していますが、ネタバレは含みます。
★追記★
より論旨が分かりやすく伝わるように、文章を随時修正していますが、私が言いたかったことは変わっていません。
ドラクエ映画を観ました。
観るまでの経緯としては、身近な人からラストのネタバレを教えてもらってから、その内容がショックすぎて、色々なレビューを読み漁りました。
気になったのは、特にラストの展開をボロカスに叩くレビューが多い一方で、
ラストの展開に感動したと絶賛し、低評価に疑問を呈するレビューも少なくなかったことです。
さらに、原作者で監修もしている堀井雄二さんも、この映画に納得、のみならず絶賛しているとのこと。
賛否両論の議論が巻き起こり、ファン同士も分断されてしまった感もあります。
それがとても悲しくて、三日三晩くらい眠れずに、このことを考え続けました。
そして、ようやく一つの仮説に行き着いたので、それを検証すべく、覚悟をしてから観ました。
その仮説は、当たっていました。
結論から言うと、この映画は、
「子どもの頃からゲームに親しんで育った世代へのYOUR STORY」ではなく、
「大人の立場でゼロからゲームを創り上げてきた世代のOUR STORY」に(無意識のうちに)なっていた、
ということです。
■「大人の立場でゼロからゲームを創り上げてきた世代」の体験とは
(画像引用:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式Twitter @DQ_MOVIE)
私は、ドラクエⅤを小学生のときにプレイしていた世代です。
ドラクエは「子どもの頃に楽しんだゲーム」で、今はやっていませんが、あの頃夢中になったので大いに愛着があります。
この立場は、映画の主人公がそうであることから、この映画のメインターゲットの一部であるはずですが、
そんな私にとって、この映画のラストはやはりショックで、控えめに言っても全く要らないものでした。
でも、一緒に観に行ってくれた、
私より少し年上の、元ゲーム関係の仕事をしていた方(大のゲーム&映画好きな方)は、ラストの展開に感動して号泣していたのです。
彼女が言うには、「自分の気持ちを代弁してくれた」。
彼女は、ドラクエⅤを学生の頃にやった世代で、社会人になってからゲーム関係の仕事に就きました。
でも当時は、ゲームに関する仕事自体少なく、
ゲーム関係の仕事をしていると人に話すだけで、「なんかそれってオタクっぽいですね(笑)」などと言われることもあったそうです。
そんな、当時の世間の無理解や偏見の中で、
それでも学生の頃にゲームで感じたワクワクドキドキ感を忘れられずに、
一生懸命戦いながら、ゲームを愛してきた。
だから、この映画のラストに感動したのだと。
そう、この映画は、
大人に近い年齢になってからゲームと出会い、大人の立場でゲーム文化を築き上げてきた人達、
もしくは世代や年代関係なく、
「ゲームに対する批判と戦ったことがある人達」だけが感動できるテーマ
に、無意識のうちになってしまっていたのです。
■「子どもの頃からゲームに親しんで育った世代」の体験とは
(画像引用:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式Twitter @DQ_MOVIE)
一方、この映画のメインターゲットだったはずの世代の「ゲーム体験」は、全く違ったものでした。
年齢によって細かな違いはあると思いますが、
例えば私がドラクエにハマっていた小学生の頃は、ドラクエが大流行していた時代。
ドラクエをやることは恥でもなんでもなく、
私達は息を吸うようにゲームに親しみ、ゲームを楽しみ、ゲームと共に育ちました。
それは、ただゲームをするというだけではありません。
友達とドラクエの話で盛り上がり、
休み時間にバトル鉛筆を転がし、
クラスの出し物でドラクエの劇をし、
ドラクエ4コマの投稿に挑戦し、
小説やサイドストーリーを楽しみ……
楽しかった思い出を数えればきりがありません。
もちろん、親にはゲームばっかりしてないで勉強しなさいとかも言われましたが、
何しろ本当に子どもだったので、どこ吹く風。
私達は、まさに全身でドラクエの世界を楽しみ、
特に周囲の風当たりも感じないまま大人になったのでした。
■ショックや憤りを感じたのはなぜか
(画像引用:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式Twitter @DQ_MOVIE)
ラストに対してショックや憤りの声があがっていることで、そう感じなかった方からは、
「映画のメッセージを勘違いしているんじゃないか」
という反論も上がっています。
ゲームやプレイヤーを否定する言葉は、あくまで「敵」が発したもの。
主人公はそれを倒して勝つのだから、怒る必要はないじゃないか、と。
しかし人は、「全く的はずれな励ましを受けると、かえってバカにされたように感じる」ものなのです。
例として、(私の愛する)「おそ松さん」ドラマCDのショートコントが分かりやすいです。
この小話では、「やる気が出なくて」悩んでいるチョロ松に対して、カラ松が悩みを解決しようと、大筋こんな会話をします。
カラ松「お前の悩みとはズバリ……『ルックス』のことだろう!」
チョロ松「…………ん?」
カラ松「だがなブラザー、見た目なんて気にするもんじゃない! お前は優しいし、真面目だ。ちょっと顔が変だからって悩んだりするな」
チョロ松「…………ん!?」
カラ松「いい男だ! 変なのは顔だけだ」
チョロ松「待てコラァ!! お前僕のことそんな風に思ってたの!? なぁ!?」
引用:おそ松さん かくれエピソードドラマCD「松野家のなんでもない感じ」第2巻「チョロプレックス」
これは、二人が六つ子で顔が同じという前提の「すれ違いギャグ」なのですが、
これを大真面目にやってしまったのが、今回のドラクエ映画です。
映画「お前の悩みとはズバリ……『大人になれ』と人に言われることだろう!」
観客「…………ん?」
映画「だがなプレイヤー、世間の目なんて気にするもんじゃない! ゲームは大事な思い出だし、愛すべき世界だ。虚構だなんて悩んだりするな」
観客「…………ん!?」
映画「ゲームはもう一つの現実なんだ! そりゃ、他人からは大人げなく見えるかもしれないがな」
観客「待てコラァ!! お前僕やゲームのことそんな風に思ってたの!? なぁ!?」
これは、「ゲームは子どもがやるもの」「ゲームなんて虚構である」という考えと「戦ってきた世代」にはストレートな励ましになりますが、
「そんなことで悩んでもいなかった世代」には、「バカにしてんのか!?」となっても仕方ないすれ違いなのです。
■「映画にする意味」を考えた山崎監督
(画像引用:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式Twitter @DQ_MOVIE)
そもそも、山崎監督はなんでこんなラストを持ってきちゃったの? という疑問もあると思います。
このインタビューを読む限り、このラストは山崎監督の発案で、監修の堀井雄二さんの承認のもと作ったという印象です。↓
このインタビューを読んでも明らかに、山崎監督は、「ゲームに対する批判との戦い、そして勝利」といったテーマを描きたくて、それにドラクエⅤを選んだというわけではなく、
「ドラクエⅤ」の映画化の依頼を受けたからこそ、上記のテーマを考えついた、という流れだと予想できます。
ドラクエⅤは、とても壮大で、長尺で、重厚な物語です。
依頼を引き受けた段階で、山崎監督は、「これは絶対映画の尺に収まらないな」と分かっていたのでしょう。
彼は経験豊富な映画監督ですから、限られた予算と時間と尺の中でこの話を映画にするとなったら、どれだけベストを尽くしても、
CGはともかく、物語としては「劣化版」にしかならないことが分かり切っていたわけです。
(だったら引き受けるなよ、という話はこの際置いておくとして……)
だから監督のインタビューでは、あのラストを思いついたことで、
「それなら映画にする意味」も見えたと語ったそうです。↓
ドラゴンクエスト ユア・ストーリー:山崎貴総監督が明かす“大人気ゲーム3DCGアニメ化に込めた思い 豪華キャスト起用のワケは… - MANTANWEB(まんたんウェブ)
案の定、ラスト以前の部分も人によってはかなり評価が低いわけですが、それは最初からある程度分かっていた、仕方のないことでした。
でも、せっかく映画にするからには、一本の映画として完成されたものにしたい。
あの「ゲームに対する批判との戦い、そして勝利」というテーマは、そんな山崎監督の映画へのこだわりから考え出された、起死回生の一撃だったのではないでしょうか。
こう考えると、山崎監督のこのアイデアは、決して、適当な思いつきとか、手抜きとか、ましてや悪意があったとかいうわけではないと思います。
彼はヒットにこだわりのある監督のようですし、あくまで多くの方に映画を楽しんでもらおうとして、今回のラストを考えたのでしょう。
ただ、その前提として、「ゲームが好きな大人なら、誰でも、多かれ少なかれ、ゲームへの批判と戦った経験があるだろう」と無意識に思い込んでおり、
監修の堀井さんや他の二名の監督も、おおよそ同世代であることから、「それは違うのでは?」と疑問を呈する人が、制作陣のトップ層にいなかったのではないでしょうか。
■戦ってきた世代がいるから今がある
(画像引用:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式Twitter @DQ_MOVIE)
……と、こう書くと、ラストに憤慨した方にとっては、なんだ世代間ギャップか!考えが古いんだよ!!と余計に腹が立ってしまうかもしれません。
でも、こう考えてみてはいかがでしょうか。
「大人の立場でゲームを創り上げてきた世代」の方々が、
ゲームだというだけで世間に白い目で見られた時代に、ゲームに素晴らしい物語や音楽を乗せ、心から楽しい体験をたくさんさせてくれたおかげで、
私達の世代は、ゲームは虚構だからどうのこうのとか、そんなことで一度も悩まなくてよかったのです。
また、大人がゲームをやるのかと笑われた時代に、ゲームを愛し続け、ゲーム文化を発展させてくれた人達がいてくれたおかげで、
私達の世代は、ゲームは子どもから大人まで楽しめるものだと、最初から当たり前に思えていたのです。
ゲームのために戦ってきた人達がいたからこそ、今がある。
この映画は、戦ってきた人達のための讃歌である。
だから、最後に敵を切り裂くのは、ゲーム黎明期を切り開いたシリーズ初期の「ロトの剣」でなければならなかった――
あえてこう考えてみるならば、ラストの展開に憤慨した方の気持ちも、少しは収まりやすいのではないでしょうか。
また、ドラクエの生みの親である堀井雄二さんが、この映画を「何回見ても泣ける」と評した、その背景にある「戦いの歴史」を想像できるならば、
「映画ドラクエ激エモ」とすら言えなくもないかもしれません。
■世代を超えて愛されるゲームだからこそ
(画像引用:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式Twitter @DQ_MOVIE)
とはいえ、メインターゲットの心情を読み誤ってしまったのだから、映画としてもマーケティングとしても、大大大失敗であったことは疑いようがないと思います。
何しろ、映画のメインターゲットの一部である20代~30代の人の多くは、もはやそんな戦いを経験してはいなかった。
相手は「戦友」ではなく、「戦争を知らない子ども達」だったのですから。
ただ、このギャップを制作陣が予想できなかったほどに、ゲーム文化の発展のスピードが早かったと言えるのではないでしょうか。
それはやっぱり、「大人の立場でゲームを創り上げてきた世代」の"成果"なのです。
そして、ゲーム黎明期から今に至るまで、「世代を超えて愛され続けてきた」ドラクエだからこそ、今回の事態が起こったことは間違いありません。
ダメだった方も、感動した方も、
決して、どちらがゲーム愛が多いとか少ないとか、そういうわけではないのです。
ただ、ゲームにまつわる原体験が異なっていただけです。
だから、
この映画に傷ついたり、怒っている方は、
「大人の立場でゲームを創り上げてきた世代の戦い」に思いを馳せてみることで、
この映画に感動したのに、低評価が多すぎて憤っている方は、
「子どもの頃からゲームに親しんで育った世代の幸せ」を知ることで、
今回の「お互いの気持が全く理解できない」という事態に、少しでも納得できたらいいな、と願っています。
(……というか、この結論に自分の中で至って、個人的にはようやく気持ちの整理がついたので、やりきれない気持ちを抱いている方のお役に少しでも立てればと思って、こうして文章にしたためた次第です)
さらに理想を言えば、この映画をきっかけに、
自分自身はどんなゲーム体験をしてきたのか、どんな風にドラクエを楽しんできたのかを語り合ったりして、
この世代を超えて愛されているゲームを、これからも共に愛していけたら嬉しいな、と思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。